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苗字の一尺八寸(カマズカ)さん

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月29日(日)12時58分15秒
編集済
   前述の「水尾山(みおやま)」の語源や「一尺八寸(カマズカ)」苗字の語源については日田の「淡窓図書館」で「ちめい」という冊子(地名研究会資料)で読んだ記憶がありますが語源はどうやら草刈鎌にあるようです。つまり、草刈鎌の柄は約一尺八寸(54㎝)あって日常よく使う農機具から苗字・山の名称になったとも謂われているのです。
江戸時代の記録の中に、平地の堀田村(現在の三本松・淡窓・港・丸の内)の草刈場としての入開地があり、その草刈の時に各々が柄一尺八寸の鎌を持って山へでかけたとあります。
 一村一品の発祥の地「桃栗植えてハワイに行こう」を推奨して有名になった日田「大山」にある地名「鎌手」は大山川の上流に向かって右手にあり、鎌は普通は右手に持つので平凡に「右手」を地名せず「鎌手」にしたとは昔の人の仄々としたユーモアを感じさせられます
 日本難読山名コンテスト第一位に選ばれた「一尺八寸山」の名称にしても、鎌に通ずる語源が確かか或は猪に纏わる伝説が真か「一尺八寸(カマツカ)」の苗字を持たれる方が実在するかの真偽は別として日田の地名は探るほどに私を楽しませてくれています。
実は「石松」の地名・苗字にしても発祥の地は「森の石松」ではなく「日田」なのです。
 
 

一尺八寸山の名称伝説

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月29日(日)11時42分7秒
編集済
   一尺八寸山(みおやま)は現在でも猪の生息地として知られ、私も其の猪の肉を幾度か頂いて食したことがありましたが、味噌仕立ての鍋料理にすると、泡立つのが特徴でした。
 「何時とは言えぬ昔の事です。日田の盆地の東西に長い尾根より多くの細流を有田川に集めている「水尾山(みおやま・水源の尾根の意)」と呼ばれている山が在りました。
 この山に住む猪はしばしば村里へ下りて来ては作物を荒らすので困り果てている村人の為に時の領主は家来を繰り出して大掛かりな猪狩りを行ったのです。夕刻までに捕獲した多くの猪の中に特別に大きな三頭の猪がいました。日ごろ見慣れている短い尾と違い巨体の猪の見事な尾に目をつけた領主は、場の慰みに三頭の尾を切り取り繋ぎ計らせてみると一尺八寸もあったのです。それから土地の人は水尾山を三尾山と呼び、次いで「一尺八寸山」と書いて「みおやま」と謂うようになりました。」
どうして?・・・「はい」その謂われが亦興味深いのです。どうぞ次回をお楽しみに!
 

難読山名コンテスト一位の「一尺八寸山」

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月28日(土)19時27分8秒
編集済
   前述の万年山(はねやま)を「ヨシミツ」さんはすんなりお読みになれましたか?。
日田は難解な呼び名が多い事はうすうすご承知だと思います。
 1995年に全国の山の愛好者がパソコンネットを使って「日本全国難読山名コンテスト」を行った事がありました。先ず地域ごとに予選を行い上位三山を更に決戦投票でベスト10を選び出したものです。結果は翌年一月の毎日新聞夕刊に十位迄が掲載されました。
一位 一尺八寸山(みおやま)所在・大分県日田
二位 爺爺山(ちゃんちゃぬぶり)・北海道
三位 月出山岳(かんとうだけ)・・大分県日田
残念ながら「万年山」は十位以内には入らなかったのですが、一位・三位と日田の二山が選ばれていました。堂々一位の「一尺八寸山」は日田盆地の東方角に位置する通称日田富士とも呼ばれている「月出山岳」の北東から北西になだらかな稜線を見せて横たわっています。この辺りの地域を東有田・西有田と言い有田の語源は古文書に「日田のひらけし時天然と田の有りし故に有田と号しとかや」と記されています。その謂われが示すように、この山の前景が見渡せる麓の平地は広大な今が旬の西瓜畑が広がっているのです。克って「日田史料・有田郷風土記・我が家の系図」等で調べた後(地元の方の案内で史跡を確かめつつ尾根縦走を試みた事がありますが、紙面の都合もありますので、次回は「一尺八寸山」の伝説としての名称の由来を記してみましょう。
 

日田盆地の由来

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月25日(水)12時05分58秒
編集済
   ヨシミツさんが毎年5月に「花火ライブ」をされる鏡坂から見える「万年山(はねやま)」は頂上が野球ができると言われている程に平らです(現在は牧場になっていて立入禁止)その「万年山」は前記の「日田の地名」で語った約100万年前の火山活動から更に約20万年近く後の火山活動によって阿蘇溶岩が幾度かに渡り前述の窪地に流れ込んだ時に造られた二重台形の山・つまり「ダブルメサ」と呼ばれる珍しい地形です。
 有名な「メサ」にはアメリカの「グランドキャニオン」がよく知られています。
通常の台状火山は「ビュート」と呼ばれ「万年山」近くの大岩扇山(だいがんせん)も「ビュート」ですが、この山は1935年に国指定の天然記念物になっています。
 日田盆地は阿蘇溶岩が流れ込んだ当時は、現在より150㍍程高い位置に水平に積成され嘗ては其処が盆地の底とされていたようです。その事は四方の山々の洪積層によって推測されています。
その後何十万年かの風化・浸食・堆積の作用が繰り返され盆地底は次第に低くなっていきました。更に花月川・三隈川の流れが、日隈・月隈・星隈の残丘を残して現在の地形が形成されていったと地質学者は見ています。
 何十万年・何百万年の単位で推測される地球上の形成を思い見ると想像に絶するものがあり二十一世紀の歴史だって瞬きひとつに過ぎないのですね。毎日与えられている24時間を有意義に!と思う私も実は一粒の砂の何百億万分の一欠片です。
 

「日鷹」の伝説

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月21日(土)18時27分26秒
編集済
   むかし、むかし、九州の中ほどに大きな湖があったそうな。湖の中には大中小三つの小島が浮かび、天気のよい日は島の木々の緑は満々と湛えた水の面に影を落とし、霧立つ朝は湖上からゆらゆらと立ち登る白い霧の衣を纏いつけ、それは美しいものだった。
 ある朝、東の空から一羽の大鷹が現れ湖上で翼を広げゆったりと輪を描いていたが、急に舞い降り・水面に羽を浸し・飛沫を掻き立て・一声高く鳴くと水滴を煌かせ乍ら舞い上がり、たちまち北の耶馬溪めざして飛び去っていったそうな。
すると,一転俄かに掻き曇り篠突く大雨に加え百雷一時に落ち湖底から打ち返る渦巻きが山肌に激しく喰い込んでいった。
 来る日も来る日も荒れ狂った湖が続いていたが、ある日すさまじい音と共に湖の西の一角が崩れ落ち轟々たる音を響かせながら筑後の平野に濁流となって走り去って行った。
 更に幾日か荒れ続いた後、やっと明るい光が射して来た時には在ろう事に湖の姿は見えず、その跡には三つの山と之を巡る二筋三筋の川が残されていた。
 人々は何時しか天象に因んでその山を「日隈」「月隈」「星隈」と呼ぶようになった。
三つの隈に沿った流れは、元は「日鷹川」から「日田川」と言われ更に三つの隈を巡るその川の名に相応しい「三隈川」と呼ぶようになったそうな。
 ここに開けた地を日輪に輝く鷹に因み「日鷹」と名付けられたが、後に「日高」そして「日田」にと呼び継がれていった。
 また一説には鷹が羽を浸したので「ひた」に・水が干いて出来た地だから「ひた」になったとも伝えられているそうな。
 

日田の地名

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月21日(土)17時06分24秒
編集済
   ヨシミツさんが16年間も毎年五月には「日田花火ライブ」を続けられていますので今日は、その「日田の地名」について記してみます。
日田盆地が何時ごろ、亦どうして盆地状になり、亦何時ごろ湖底時代があって、その湖水が何故流出したか等は未だ解明を見ていないのですが、地質学者の説によれば日田市を取り巻く周囲の山地は新世紀後期、主に第四世紀にかけて筑後溶岩・万年山(はねやま)溶岩・耶馬溪溶岩・等の流れが積み重なって初期の形成が出来ていったとされています。
 今から約100万年前の大規模な火山活動が日田周辺を溶岩台地にしたと言われています。その溶岩の層が万年山(はねやま)の下部・大岩扇山・小岩扇山・鏡山・伐株山・等に残っているのを以ってその説が比較的はっきりしていると見られているのです。
 さて、我が家に伝わる系図の記述によれば「三毛入沼命」(みけぬまのみこと)から三代後の「鬼王太夫」(六代目孝安天皇52年西南湖水乾作邑里日之日鷹郡)が西南の湖水を乾して邑里を造り之を「日鷹郡」と名付けたと記されています。それから三七代後の鬼蔵太夫が「日鷹」を「日田」と改めた様です。(古文略)「日鷹」の地名には、これまた面白い伝説がありますので、どうぞ、次回をお楽しみに!
 

日田の城跡我が家の系図から

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月15日(日)19時14分56秒
編集済
  41代目「鬼蔵太夫」が、白鳳元年に日鷹郡大領に任じられ
     仁寿二年(文徳天皇・西暦852年)に日鷹郡有田に城を築きました。
     延喜十一年(醍醐天皇・西暦911年)に日鷹をもって「日田」と改め
     三郷・五郷・四庄に分けて治めました。
44代目「鬼隆太夫」(寛弘三年一条天皇・西暦1006年)が日田郡の境に五つの
     守禦城を築きました。
 1の城)亀石山(東に位置し竹田に通ず)
 2の城)鳥宿山(東南に位置し大山・天ヶ瀬に通ず)
 3の城)高井岳(南西に位置し日田の中心に最も近い)
 4の城)針目山(西に位置し筑後に通ず)
 5の城)藤 山(北に位置し中津・杵築に通ず)
以上「日田」には「日隈城」「月隈城」「星隈城」と併せて九つの城跡があります。
 

三隈の城跡

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月 9日(月)09時34分19秒
編集済
  「日隈城」(文禄三年・1594年・豊臣秀吉)日田・玖珠の二郡は太閤蔵入地と
     なり初代代官「宮木長次郎」が現在の亀山(かめやま)に日隈城を築き
     城下町「隈町を造りました。
「月隈城『丸山城』」(慶長六年西暦1601年・徳川家康)代官として日田に
     入った「小川壱岐守光氏」が月隈山上に城を築き、城下町「丸山町」の
     造成に着手以後家臣が三年を要して完成させました。
     その後(元和二年西暦1616年)徳川秀忠「石川主殿頭忠総」が
     日田藩主となり日田・玖珠の御領所を私領として支配し丸山城を永山城に
     丸山町を豆田町に改めました
「星隈城」「小川壱岐守光氏」が、月隈の丸山城が完成するまでの仮城を築いた所で
     現在は山頂に八幡社があります。
     観光地日田の現在では「隈町」は温泉街になっていて「ヨシミツ」さんが
     日田ライブの折に泊られる山陽館もこの通りに面しています。
     「豆田町」は江戸時代の面影を残す町並みで多くの旧家が競い合うように
     受け継がれた雛飾りを展示公開します。
 毎年三月ともなると、豆田通りの観光客は東京の原宿・秋葉原にもひけをとらない
 賑わいを見せるのです。
 

三隈の語源

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月 7日(土)10時03分30秒
編集済
  「三隈川」は以前「日田川」と呼ばれていました。三筋の川の流れに沿って三っの山があるのです。その山を天象に因んで一番大きな南の山を「日隈(ひのくま)」(日のかげの意)中位の北の山を「月隈」(月影の意)一番小さい山を「星隈」(星の影の意)と名づけられた所以で「三隈川」となったのです。いずれも山というよりは丘に近いものです。ここで、「ヨシミツ」さんが16年の公演を重ねられている、過ぎし昔は九州の中心地であった「日田」の歴史を辿りましょう。
 文禄二年(1593年)から慶長六年(1601年)まで日田・玖珠は隈藩大名領から太閤蔵入地に・次いで幕府直轄地となり、それまでの藩主「毛利伊勢守高政」の大名預所となりましたが、直後に「高政」は隈より佐伯へ転じ、文禄三年(1594年)には江戸幕府直轄領として初代代官「宮木長次郎豊盛」が入り、九州に散在する多くの直轄地を支配して「日田」が行政・経済・文化の中心になりました。
 次回は日田に残されている城跡を我が家の系図から六ヶ所と、三つの隈に建てられていた城について語ってみましょう。
 

日田の鏡坂ものがたり

 投稿者:石松登美子メール  投稿日:2008年 6月 6日(金)11時15分10秒
編集済
   事は次いで今日は日田の「鏡坂」の名の由来について語りましょう。
 古事記において倭建命(日本武尊)が征西・東征にと、父(景行天皇)に命じられる儘に智力を尽くして国を平(ことむ)けに廻られた記述があります。その中の一話ですが、童女の髪を結い伊勢神宮の叔母から頂いた衣装を身につけ乙女の姿で熊曾建兄弟を討ったのは16歳の頃でした。その帰途だと思いますが、日田の郡で尊を出迎えた久津媛に故郷を懐かしまれて「関東は、どの方角になるか?」と尋ねました。「あの月の出ている山の方角です」と答えられたのをもって、今でも日田富士の別名でも呼ばれ、秀麗に聳え立つ山を「月出山(かんとう)」と名づけられたのです。坂の上では日田の郡を見渡されて「この郡の地形は、鏡の面に似たる」と申された所以でその坂を今尚「鏡坂」と呼ばれているのです。古文書によれば当時の日田盆地は湖の様に水に浸らされていたので、鏡の面になぞらえたのでしょう。当時に「関東」と呼ばれる地名が存在したか否かは私が知る事ではありませんし実は、私自身も疑問に思っているところです・・・
 

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